徳川家斉が幕府政治に与えた影響は?政策は?財政は?

徳川歴代将軍の中で最も在任期間が長かった11代将軍徳川家斉は、12代将軍となった家慶に実権を渡さず、面倒な事務処理を押し付けて将軍職を継続したため大御所時代と呼ばれています。

本来の大御所といえば、徳川家康が、後継者秀忠に将軍としての権威と実力を備えさせるための教育期間として実権を握るものですが、徳川家斉には次期将軍に対する教育的配慮は感じられません。

10代将軍家治の死去にともない、11代将軍となった徳川家斉は、享保の改革を理想とした行政改革を始めるために老中の田沼意次を解任し、松平定信を老中首座に据えて寛政の改革を進めています。

徳川家斉が松平定信と二人三脚で進めた幕府政治のさまざまな政策と、悪化していた幕府財政の状況などを紹介します。

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徳川家斉の老中首座松平定信が行なった寛政の改革とは?

享保の改革の後、幕府の財政改革を担った田沼意次は、商業を重視した重商主義に基づく政策を行って、貨幣の流通や貿易などに力を入れたため、賄賂政治と汚職が起こります。

11代将軍となった徳川家斉は、田沼意次の失脚後に松平定信を老中首座に据えて、士風の引き締めや文武の奨励、緊縮財政の推進といったさまざまな政策を打ち出し、「寛政の改革」をすすめて財政の立て直しをはかります。

寛政の改革では、囲米と旧里帰農令の政策による農業を中心とした財政立て直しをはじめ、寛政異学の禁による儒学以外を禁じて学問や風紀政策をはかり、株仲間の解散など田沼意次が行なった商人対策の政策を廃止し、旗本に対する借金の取り消し制度といえる棄損令などの政策が講じられています。

質素倹約を重視する厳格な松平定信が主導した寛政の改革は、徳川家斉と松平定信との間で起きた尊号事件をきっかけに、定信が罷免されて終焉を迎えます。

寛政の改革がもたらした徳川家斉の幕府の政治と財政状況は?

徳川家斉と松平定信の二人三脚による寛政の改革は、それまでの田沼意次による重商主義での財政改革政策の副作用として賄賂政治と汚職が蔓延した状態を改善し、一時的には幕府の財政は引き締められますが、その厳しさから民衆の反発を招き、尊号事件により松平定信が罷免されて改革は頓挫します。

松平定信が罷免されて徳川家斉のお目付役がいなくなると、家斉本来の漁色家と享楽的な性格が暴走しだし、大奥への多額の資金投入が原因となり、幕府の財政状況を悪化させています。

徳川家斉にオットセイというあだ名がつくほど、歴代将軍の中でも最多の40人の側室を抱え55人もの子供を産ませていることからも、漁色家だったことがわかります。

徳川家斉の大御所時代には、老中水野忠成による賄賂政治が横行して政治の腐敗がすすみ、放漫な政治によって物価騰貴や生活の破綻が起き、百姓一揆や打ちこわしが頻発しています。

徳川家斉の長すぎた将軍職在任期間は、幕府の威信を失墜させ、財政状況を悪化させたといえます。

幕府の権威を失墜させた徳川家斉の政治と財政政策

11代将軍徳川家斉は、将軍就任当初こそ老中松平定信の存在によって、享保の改革を理想像とした幕府の財政立て直し政策を打ち出した寛政の改革を行なっています。

一時的には、幕府の財政が引き締められたものの、徳川家斉の漁色家の側面による大奥への多額の資金投入による幕府財政の悪化は深刻で、尊号事件により松平定信が罷免されたことで寛政の改革は頓挫し、水野忠成の老中就任以降、賄賂政治が横行し幕府の権威は失墜します。

徳川幕府の権威と武力による統治体制が崩れるきっかけを作ったのが徳川家斉です。

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