徳川家宣と御台所天英院との関係性

甲府藩主徳川綱重の長男として生まれ、一旦家臣の新見正信に預けられ、9歳の時に世嗣として呼び戻された徳川家宣は、17歳で家督を継承し祖母の順性院に育てられます。

甲府藩主となった徳川家宣と縁組されたのが、のちの天英院となる近衛煕子で、近衛基煕と御水尾天皇の娘の常子内親王の娘です。

近衛煕子の結婚には、父基煕が「先祖の後遺戒である武家との結婚の禁忌に背く」として反対しながら、幕府には内緒で養女縁組みを成立させて婚礼を迎えています。

甲府藩主から江戸幕府6代将軍となる徳川家宣と正室の近衛煕子、のちの天英院について紹介します。

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徳川幕府と皇族との政略結婚で嫁いだ天英院

徳川幕府体制には、皇族のような家柄を誇ることができる大名はほとんどおらず、徳川家の遠祖でさえ、名もなき遊行僧が三河松平に定住したことから始まったとされています。

そのため、徳川家をはじめとした諸大名は、京都の公家との関係を持つことで伝統という尊敬を得るために、高い家格の家との縁組の機会を伺っています。

そんな中、のちに天英院となる近衛煕子と甲府藩主となったのちの徳川家宣である徳川綱豊との縁組は、徳川家からすれば当時の日本で第一の貴顕の人との婚姻にあたります。

近衛煕子の父基煕が、武家との結婚を嫌ったのも無理からぬことですが、幕府からの正式な要請を断ることができず、煕子を平松時量の養女に出して縁談を受け入れています。

近衛家と平松家での養女縁組は、幕府からすれば侮辱行為であるため、幕府に対しては近衛煕子を近衛家の娘として婚礼の式を挙げています。

徳川家宣と天英院との関係は?

徳川幕府と皇族との間の政略結婚で夫婦となった徳川家宣と天英院でしたが、正徳の治とされる治世を行なった家宣の人格のためか、夫婦仲は良かったといわれ、歴代将軍とは違って家宣が長い間側室を置かなかったことからも推測できます。

徳川家宣と天英院との間には、二人の子供が授かりますが、一人目は1年と2ヶ月、二人目は出産と同日に亡くなっています。

44歳で将軍正室として大奥に入った天英院が家宣の男児を生むことができる年齢ではなかったため、家宣は側室4人を置いていますが、将軍として世継を残すための目的と、甲州の血縁を広めるための最低限の仕事のための女性関係を持っていたようで、女性に対しては派手な様子は伺えません。

家宣の側室の一人であるのちの月光院が男児を産み、将軍生母となる月光院と天英院の大奥での対立が深まりますが、家宣の突然の死の際にも、幼少の家継の将軍職就任に対し、毅然とした振る舞いをみせています。

幕府権威失墜の危機を陰で救った天英院

徳川家宣の正室として嫁いだ後の天英院、近衛煕子は、当時では日本で最も身分の高い貴顕の人にあたる女性で、幕府の要請を受けた皇族との典型的な政略結婚です。

政略結婚とはいえ、徳川家宣の当時としては稀な人格者としての人柄のためか、夫婦仲は良かったと推測され、家宣の側室との関わりにも現れています。

家宣が置いた側室の一人である月光院が将軍生母となり大奥での権勢を振るい、大奥の組織が乱れ、世間での評判も悪くなる中、幼い家継が危篤となり幕府の危機に対して天英院が毅然とした対応をみせ、「公人の妻」としての役割を果たしています。

時代が大きく動いた背景に、歴史には名前を残すことなく重要な役割を果たした人物は多く、天英院も徳川家宣を支えた影の功労者の一人となっています。

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