細川忠興は、室町幕府13代将軍足利義輝に仕える細川藤孝と正室の沼田麝香の長男として生まれ、織田信長、織田信忠、豊臣秀吉、豊臣秀頼、徳川家康、徳川秀忠といった主君に仕えています。
また、細川忠興といえば、織田信長の仲介によって、のちに細川ガラシャとして有名になる明智光秀の三女を正室に迎えていると連想する人も多いと思います。
それぞれの主君に仕えた細川忠興には、優れた政治手腕を持つ反面、一色氏の討伐の際には敗残兵を皆殺しにする残忍さもあり、身内の者にも容赦のない対応をみせています。
晩年にやり取りされた徳川秀忠とのやり取りには、それまでとは違う角の取れて丸くなった関わりが残されています。
優れた政治手腕により関ヶ原の戦いで活躍した細川忠興
僅か15歳で初陣を迎えた細川忠興は、優れた武功のみならず、その後のさまざまな身内の不祥事や対立に対して、優れた政治手腕を発揮し戦国武将としての立場を確保しています。
織田信長の仲介により正室として迎えた細川ガラシャに対しても、義父である明智光秀が起こした本能寺の変を受けて、即座に丹後国に幽閉し、光秀との関係に疑われる余地を与えず、豊臣秀吉との関係を築きます。
また、豊臣秀吉の死去後は、石田三成らと対立し、徳川家康に接近して丹後に加えて豊後国6万石を加増されて勢力を伸ばしています。
しかも、徳川家康の関ヶ原の戦いにおいても、他の大名に先んじて参与を表明し、武功により丹後から豊後国中津に33万9000石に加増されて国替えとなり、豊後を合わせると39万9000石の大名になり、その後、小倉城の完成後は小倉藩初代藩主となり、小倉城に藩庁を移します。
細川忠興と徳川秀忠との関わり
細川忠興は、徳川幕府では外様大名の一人であり、徳川秀忠の家臣ではないものの藤堂高虎と交流することで、幕府とのパイプをつなぎ立場を確保する処世術をなしていました。
そのため、徳川秀忠が細川忠興に「天下の政治はいかにすればよいか?」と尋ねられるほどの関係を築いており、「天下を治めるには、規則などで四角四面の世の中にすれば、息苦しさを感じた人から不平不満が生まれるため、余裕をもつための隙間を持っておくことが大切」といった趣旨の答えを返しています。
また、病気のために細川忠興が家督を三男の忠惇に譲る際にも、将軍家康への願い出にも徳川秀忠の許可を添える気遣いと処世術を駆使しています。
多くの主君に仕えた細川忠興には、武将としての残虐さとさまざまな局面でみせる処世術の両面を持ち合わせており、徳川家康と徳川秀忠の二元政治においても、その手腕が発揮されています。
細川忠興が晩年にみせた徳川秀忠とのやり取り
細川秀忠は、織田信長を主君とした初陣での武功から、数々の戦いですぐれた戦功を残しながら、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠といった複数の主君に仕えています。
徳川家康の家臣として、関ヶ原の戦いでの武功により丹後から豊後中津に国替えとなり、小倉城の完成後には小倉藩初代藩主となります。
徳川秀忠と細川忠興の関わりは、秀忠が晩年になっていたため、それまでの角が取れ、秀忠の政治に対する疑問にも丁寧に答え、三男へ家督を譲る際にも、秀忠を立てた申請を家康に行うなどの対応をみせています。