徳川慶喜と坂本龍馬が大政奉還を選択した理由とは?

ペリーの四隻の黒船が浦賀沖に現れて、江戸時代の日本では尊王攘夷運動の高まりを受け、薩長を中心とした武力による倒幕派の動きが活発化します。

武力倒幕派による挙兵行動の大義名分を排除し、江戸での内戦を回避する奇策ともいえる大政奉還を決断した徳川慶喜ですが、この奇策は土佐藩の建白書が採用されています。

土佐藩を脱藩した坂本龍馬が、土佐藩参政の後藤象二郎に大政奉還の奇策を伝授し、賛同した後藤が土佐藩前藩主である山内容堂を通じて幕府に建白書を提出しています。

江戸幕府の危機的状況を回避しようと奮闘した坂本龍馬と15代将軍徳川慶喜が、大政奉還という同じ決断に込められた意図や違いなどを紹介します。

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坂本龍馬が考えた大政奉還とその目的は?

大政奉還は、徳川幕府が行なっていた日本国内の政治権限を天皇とその家臣たちの朝廷に返還することを意味し、幕府がなくなることを意味します。

つまり、鎌倉時代から続いた武士による武家政治の行政や立法、司法といった政治の主導権を朝廷へ渡すため、武家政治の終わりを意味しています。

ペリー来航以来、薩長を中心とした武力倒幕派の大義名分を大政奉還により無くして、戦争をすることなく平和裏に政治権限を移譲させることが、坂本龍馬の大政奉還の構想でした。

しかも、坂本龍馬は、大政奉還後の新国家構想も船中八策に起草していて、単に内戦を避けるだけの奇策ではありませんでした。

大政奉還を決断した徳川慶喜の意図とは?

坂本龍馬が発案した奇策ともいえる大政奉還のアイデアを土佐藩山内容堂が老中板倉勝静に提出し、受け取った徳川慶喜が決断しています。

徳川慶喜が、土佐藩からの大政奉還の建白書を受け入れたのには、薩長を中心とした倒幕派と攘夷を求める朝廷の二つの圧力を解消する目的があったと考えられます。

また、徳川慶喜には、大政奉還によって朝廷に政権を返還したとしても、朝廷に国内政治を統治できる組織も人材もいないため、幕府の組織力と人的資産を頼ることが予想され、政治の主導権が徳川家から離れることはないという打算があったと思われます。

実際には、倒幕派の中心である薩摩藩による挑発行為によって鳥羽伏見の戦いが起き、王政復古の大号令による徳川慶喜と幕藩体制の勢力の排除が行われます。

徳川慶喜と坂本龍馬の大政奉還に求めた違いは?

鎌倉時代から約700年続いた武家政治の終了となる大政奉還を提案した坂本龍馬と、その決断をした徳川慶喜には、それぞれの狙いがありました。

坂本龍馬には、大政奉還によって江戸幕府と薩長の武力倒幕派との対立の激化による内戦を避けた平和革命の意図が想像されます。

一方の徳川慶喜には、平和革命を主眼とした坂本龍馬の狙いに加え、幕府がなくなったとしても、徳川家が行政機関としての主導権を取り返し、再浮上する狙いが隠されています。

歴史の転換点となった幕末に、既存の体制の頂点にいた徳川慶喜とその体制を嫌い脱藩者となった坂本龍馬が考え抜いた奇策が一致したものの、その想いの違いが両者にはあったようです。

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