徳川家茂と一橋慶喜との後継問題

徳川家茂と一橋慶喜は、江戸幕府の13代将軍徳川家定の後の将軍職継承をめぐっておこる将軍継嗣問題の当事者となります。

ペリーが黒船で日本にその姿をみせた頃の日本では、徳川家慶が江戸幕府第12大将軍として幕政にあたっていましたが、家慶の嫡男である家定は脳性麻痺だったともいわれ、病弱で言動も曖昧なことが次期将軍として問題視されていました。

徳川家慶は、嫡男の状況に懸念を抱き、一橋慶喜を養子として次期将軍にと考えるものの、老中阿部正弘の反対で養子とすることをやめ、家定の不測の事態に一橋慶喜に将軍職を継承させることを非公式に決めていました。

12代将軍徳川家慶の死去によって、黒船来航に混乱する幕府内部は、将軍職継承をめぐる問題も浮上し、一橋慶喜と徳川家茂のそれぞれを擁立する動きが起こります。

スポンサーリンク
tokugawa-history.comレクタングル大

将軍継嗣問題で対立した一橋派と南紀派

浦賀にペリーの黒船が来航して、江戸幕府をはじめ庶民にも動揺が広がる混乱のなか、12代将軍家慶が亡くなり、脳性麻痺を患う病弱だった徳川家定が13代将軍となります。

徳川家定には世継ぎを期待できない状況にあったことは明白で、即座に家定の次の将軍を誰にするのかが問題となります。

徳川家定の後継をめぐり、一橋慶喜を推す徳川斉昭と阿部正弘、島津斉彬の一橋派と、徳川家茂を推す井伊直弼と本寿院の南紀派が対立し、将軍継嗣問題が起こります。

最終的には、南紀派がこの対立に勝利し、徳川家茂が14代将軍に就任し、一橋慶喜は将軍補佐役に就任します。

一橋慶喜が徳川家定の後継とならなかったのは?

12代将軍徳川家慶と老中阿部正弘が、家定の後の将軍職継承者と想定していた一橋慶喜ではなく、南紀派の井伊直弼らが推す徳川家茂となったのには、一橋派を支えた支持者たちの死去が影響しています。

将軍継嗣問題の時期に、一橋派を支えた阿部正弘と島津斉彬の二人が相次いで亡くなり、一橋慶喜を推す勢力が弱くなり、大老となった井伊直弼によって押し切られます。

一橋派と南紀派の将軍職継承をめぐる争いは、その後の井伊直弼による政治的弾圧となる安政の大獄が起こり、日米修好通商条約の締結に調印した井伊直弼を問い詰めた一橋慶喜は、謹慎処分を受けますが、桜田門外の変で井伊直弼が殺害されたことで謹慎が解除されています。

幕末の混乱の中で起きた将軍職継承をめぐる争い

黒船の来航によって混乱する江戸幕府では、病弱で脳性麻痺を患っていたといわれる徳川家定の後継をめぐり、徳川家茂と一橋慶喜のいずれかを将軍とすべく、一橋派と南紀派が対立します。

家定の父である12代将軍だった徳川家慶は、嫡男家定の状況を勘案し、老中阿部正弘と内々に家定の不測の事態には一橋慶喜を次期将軍に継承させるとしていましたが、井伊直弼らの南紀派と呼ばれる勢力が徳川家茂を推して将軍職に就任させています。

たった四隻の黒船の来航によって、大きく揺れた日本は、ちょうど時期を同じくして、長く続いた江戸幕府の将軍職継承でも混乱をきたし、当事者となった徳川家茂が将軍となり、もう一方の一橋慶喜が将軍補佐役に就任しています。

スポンサーリンク
tokugawa-history.comレクタングル大

tokugawa-history.comレクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする