徳川慶喜は明治政府の樹立でどうなった?明治維新後は?

鎌倉時代から長く続いた武士による政治の実権支配も、1853年にペリーが浦賀に黒船で出現したことで、日本国内に尊王攘夷運動が強まり、時代の変化がはじまります。

明治維新は、ペリーの浦賀来航から戊辰戦争が終結するまでを指して表現されますが、それまでの幕府による政治の実質的支配権を天皇に戻した大政奉還により、日本が近代化していった過程も意味しています。

明治維新の最終的な判断を下した徳川慶喜と、大政奉還による明治政府樹立後の徳川慶喜の余生などを紹介します。

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明治維新のキッカケと大政奉還までの経緯は?

明治維新のキッカケとなるペリーの黒船が浦賀沖に姿を現したのは1853年で、日本に開国を求めて日米和親条約を締結し、その後、不平等条約といわれる日米修好通商条約の締結にすすみます。

この条約締結をめぐって、日本の産業界への影響が甚大だったことや天皇の承認もなく締結された条約だったために、外国人を排除しようとする「攘夷論」や天皇を敬うことを正義とする「尊王論」が持ち上がり、これらが融合した形として「尊王攘夷運動」につながり、倒幕を武力によって実現しようとする動きが現れます。

尊王攘夷運動の中心となったのが長州藩でしたが、八月十六日の変による京都の追い出しが起こり、それに反発した長州藩による禁門の変が起こり、朝廷からも朝敵とみなされてしまい、下関戦争で攘夷が不可能であることを悟った長州藩は倒幕運動へと変化していきます。

倒幕運動へと変化した長州と薩摩が同盟を結んだことで、幕府による第二次長州征伐では長州が幕府軍に勝利し、幕府軍の権威は失墜し、朝廷から倒幕の密勅が下ります。

徳川慶喜が大政奉還を決断した理由とその後は?

第二次長州征伐の敗北と薩長同盟による倒幕の動きで追い詰められた第15代将軍徳川慶喜は、国内での倒幕軍と新政府軍の内乱の可能性と、それに乗じて侵略を試みるイギリスやフランスといった外国勢力の動きから、大政奉還によって内乱と海外からの侵略を封じたと考えられます。

しかし、現実には大政奉還による戊辰戦争が勃発し、鳥羽伏見の戦いに出兵を決断した徳川慶喜は、兵を残したまま江戸に戻ってしまい、上野寛永寺に謹慎してしまい、事態の収束を勝海舟に託してしまいます。

勝海舟と倒幕軍の明治政府軍を率いる西郷隆盛の会談により、江戸城の無血開城という和平が成立します。

明治維新によって大政奉還が実行され、明治政府が誕生したことにより、徳川慶喜は徳川家の当主の座を退き、隠居生活を迎えることになり現在の静岡市葵区に移り住みます。

隠居生活においての徳川慶喜には、徳川幕府最後の将軍の面影はなく、写真や油絵、狩猟などの趣味を楽しみ、悠々自適な生活を送っています。

晩年、巣鴨に移り住んだ徳川慶喜は、明治天皇に謁見するなどしており、のちに貴族院議員を8年勤めて明治政府での政治活動へ復帰を果たし、その後再度の隠居生活を送って77年の生涯に幕を下ろしています。

徳川慶喜の大政奉還による明治維新と明治政府の誕生

長く続いた封建制による政治の実権的支配にさまざまな矛盾を生じ、外国からの日本の侵略の危機も重なった江戸時代の終盤に15代征夷大将軍に就任した徳川慶喜は、自ら謹慎を選択し将軍職を放り出した印象は否めないものの、結果的には、幕府側の人間でありながら、明治維新を実現させた最大の功績者となっています。

明治政府誕生後の徳川慶喜は、長く隠居生活を送りながら、晩年には明治政府での貴族院議員となり8年間過ごし、再度の隠居生活を送り77年の生涯を閉じています。

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