徳川秀忠のゆかりの地は?史跡には?

徳川秀忠は、徳川家康の三男として側室との間に誕生し、家康の長男が謀反の疑いによる切腹と次男の35歳という若さでの死去に伴い、徳川幕府二代目将軍となります。

江戸時代が誕生して5年で将軍職を継いだ秀忠は、父である家康が存命であったこともあり、将軍就任当初は、二元政治体制で幕政にあたっています。

そのため、大坂の陣にも徳川秀忠は、父家康とともに参戦し、三代将軍となる家光への将軍職移譲後も、家康と同様に実権を手放さずに二元政治を行なっています。

歴史の教科書などで、徳川家康の歴史上の偉業については多く語られる割には、二代目となる秀忠の記述が少なく感じるのは、二元政治が原因ですが、江戸幕府の基盤を固めた功労者といえ、徳川秀忠に関するゆかりの地などを含めて紹介します。

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徳川秀忠の印象につながる関ヶ原の戦いでの遅参

江戸幕府をつくった徳川家康に比べ、二代目となる徳川秀忠についての扱いは、学校の歴史の授業でも大きくはないものの、約300年も続く幕府政治の基盤を築いた功績者です。

ただ、徳川家康が、天下分け目の関ヶ原の戦いで本陣を構えた戦いを繰り広げるなか、信濃国の真田親子の籠城戦を制して合流する予定だった徳川秀忠は、関ヶ原に遅れて到着したものの、戦いはすでに終了していたという失態をおかします。

そのため、徳川秀忠の評価に、父家康に比べて劣っている印象が持たれながら、二代目将軍を継承し、脆弱な幕府の統制を強化するために、大名の取り潰しを行なっています。

豊臣を滅亡させた大坂の陣には、大名家の謀反に対する幕府の厳罰姿勢を示したもので、徳川秀忠の最初の仕事といえ、これには家康の参戦も記録されています。

徳川秀忠が二代目を継承する際に関わりの深いゆかりの地は、家康と共に、関ヶ原や大阪城があげられます。

徳川秀忠の二代目将軍としての功績は?

徳川秀忠の二代目将軍としての功績は、関ヶ原の戦い後の謀反の可能性のある大名の取り潰しにはじまり、大名家を統制するための法律である武家諸法度の発布、朝廷や公家を統制するための禁中並公家諸法度があげられ、これら二つの取り組みには、家康の影響も感じられます。

徳川家康の死後、徳川秀忠の最も大きな功績は、自らの側近である酒井忠世や土井利勝を老中に任命し、徳川御三家と呼ばれる三家に対して、跡継ぎがいない場合の血統維持の役割を作り、江戸幕府の基盤を強固なものにしたことです。

その一方で、紫衣を着る許可を僧侶に与える朝廷に対して法度違反と指摘し、勅許を無効にした紫衣事件により、朝廷に対して幕府の立場が優位であることを印象付けています。

家光によって鎖国政策が実施される下地となるバテレン追放令の発令にも、徳川秀忠の功績の一つで、外国船の寄港場所を長崎、平戸に限定したことで、それぞれの港もゆかりの地となっています。

徳川秀忠の功績とゆかりの地

徳川秀忠は、家康の後を引き継ぎ二代目将軍として、武家諸法度と禁中並公家諸法度の二つを制定することで、大名と朝廷や公家を統制し、外様大名を改易させ、一族を要所に配置して、幕府による政治統制の基盤を強化しています。

二代目将軍に就任する直前の関ヶ原の戦いにおいて、徳川秀忠は戦地への到着が遅れ、戦い終了後に到着する失態をしていますが、その後の秀吉との大阪城の戦いで名誉挽回を果たします。

戦場での戦いは激減した徳川秀忠のゆかりの地には、関ヶ原、大阪城といった場所があげられ、政治手腕を発揮した秀忠に影響を受けた長崎や平戸といった場所もあります。

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