徳川家光が行なった政治には?政策は?

徳川家光は、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の次男として生まれ、徳川家康の鶴の一声で三代目将軍を継承することが決まり、江戸幕府の基盤を固めた人物です。

実際の幕政運営には、二代将軍の徳川秀忠が大御所として家光の政治に関わっており、徳川家光の独自の政策は、秀忠の死後から本格化します。

幕藩体制の基盤確立のために、老中や若年寄の職を作り、国内の治世のための政策や外国との貿易制限のための鎖国体制の確立などに功績を残しています。

徳川家光がおこなった徳川家の将軍継承の盤石化のために行った政治や武家諸法度の改訂、参勤交代、鎖国などについて紹介します。

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徳川家光がおこなった幕藩体制の組織再編は?

大御所である徳川秀忠の死後、徳川家光は徳川家の直属の家臣である旗本を再編し、幕府には老中や若年寄などの役職を作り、将軍を最高権力者とする組織に作り変えています。

そして、譜代や外様を問わずに有力大名の改易と転封によって、徳川家にとっての重要拠点に親藩や譜代大名を配置して、徳川家の政治的な支配を強固なものとします。

武家諸法度の改訂を行い、諸大名の幕府への反乱を防ぐ目的と権威を示すために参勤交代を義務付けますが、天草四郎らの島原の乱を受け、キリシタン大名の存在やキリスト教徒の増加を防ぐための管理体制のために鎖国政策をすすめます。

各藩の藩主を一年おきに江戸に出向かせる参勤交代によって、江戸と自国領の国許への往復にかかる費用負担が発生するため、諸藩の財力が低下して徳川家に対抗する武力を削ぐと同時に、参勤交代に使用される道路整備や宿場町の発展につながっています。

徳川家光の海外との外交政治は?

徳川家康の時代から、諸大名の南蛮貿易による利益を一括して幕府が掌握し、外国との交流も把握するために、秀忠の時代から徐々に貿易の制限をかけ始めています。

徳川家光の時代に入り、キリスト教信者やキリシタン大名が増えることで幕府に対立する勢力となることを防ぐために、キリスト教の弾圧を強め、貿易の場所を長崎の出島に限定し、貿易相手国もポルトガルと決別し、オランダと中国の二国に限定しています。

徳川家光による鎖国体制の完成は、政治的にキリスト教を封じ込め、幕府の体制維持に脅威となる勢力を抑える効果を狙ったものといえます。

国内の幕藩体制の強化と外国と諸大名の結びつきを政治的に封じることで、徳川家の将軍職の権力強化をはかり長期政権の基盤を固めています。

徳川家光が江戸幕府の体制強固のために行った政治

徳川家光がおこなった政治は、徳川将軍家の将軍職継承の維持と権力強化のために、諸大名に反乱をおこなせないための組織改革と武家諸法度の改訂を行い、幕府による一括掌握をはかっています。

諸大名に幕府の権威を示し、反乱の余力を削ぐための参勤交代の制度を義務付け、外国との交流や貿易の管理や利益の掌握をはかるために、長崎の出島に限定した鎖国体制を確立しています。

一方で、徳川家康への敬愛の強さから、莫大な資金を使用した日光東照宮の建造には、歴代将軍の中での評価を下げる見解も存在しています。

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