徳川家重とうなぎの関わりは?

夏の土用の丑の日にうなぎを食べるという食文化は、江戸時代の平賀源内がうなぎ屋の宣伝を書いたことに由来すると一般的に知られています。

うなぎに関する食文化は、徳川家康の時代に江戸湾の干拓による湿地にうなぎが住み着いて、労働者の食事として蕎麦などと同じように、安い値段で屋台などで提供されています。

うなぎの蒲焼やうな重などの調理法は、江戸時代中期以降に確立されたといわれ、元禄文化の中で広がりをみせています。

平賀源内とつながりのある田沼意次の関係性や、徳川家重の名前は好物のうなぎに由来したなどという戯言もある江戸時代のうなぎの食文化を紹介します。

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江戸時代でのうなぎに関する食文化は?

今の日本にあるうなぎの食文化は、江戸時代の明暦の大火によって復興にあたった労働者に提供するための食べ物屋の登場によるものです。

華やかな元禄文化の時代背景によって、それまでは一部の上層階級にしか食べられなかった料理が、一般大衆向けの庶民料理に変化して食べ物屋で提供されています。

徳川家康の時代には、うなぎはぶつ切りにされたものを串に刺し、鮎やマスといった川魚の塩焼きのような状態で露天売りされる高級な料理ではなく、うなぎのタレによって蒲焼きの状態になったのは、徳川家重の時代といわれています。

徳川家重は、うな重を好んだともいわれ、うなぎと関わりの深い平賀源内と田沼意次の関係性から、家重との関わりも一説ではいわれています。

田沼意次と平賀源内の関わりは?

うなぎの食文化が現在のような蒲焼きとして登場しはじめた徳川家重の時代から、一般の庶民に暑い時期の体調管理のためにうなぎを食することを勧めた平賀源内の宣伝は、少し後の時期です。

平賀源内は徳川家重と同時期を生きた人物で、家重が重用した田沼意次との関わりのある人物です。

生まれつき病弱で脳性麻痺と思われる症状のため言語が不明瞭だったといわれる徳川家重の片腕として、老中の田沼意次が政治の実権を握っていたといわれ、家重の信頼も厚かったといわれています。

田沼意次が町人出身の女性を側室としようした際に、平賀源内が女性の養女先を斡旋したことが、二人の付き合いの始まりといわれ、田沼は源内の才能に注目していたと思われ、その後の貿易関連の仕事や鉱山開発などに登用し、資金援助なども行なっています。

田沼意次と平賀源内の関係性、うなぎの蒲焼が普及し始めた時期が徳川家重の時代であったことから、三者のうなぎへの関わりに着目した俗説があります。

徳川家重の時代に広まったうなぎの蒲焼?

古来から食されてきたうなぎですが、現在のような蒲焼きとして食べられるようになったのは、徳川家重の時代と考えられています。

徳川家康の時代には、うなぎをぶつ切りにして魚の塩焼きのようにした状態で露天売りされるような、立ち食い用の庶民の食べ物でした。

土用の丑の日の風物詩ともなっているうなぎですが、その起源は、徳川家重が重用した田沼意次と関わりのある平賀源内のうなぎ屋の宣伝だといわれます。

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