徳川幕府の二代将軍に就任した徳川秀忠には、初代家康が存命中は大御所として政治の実権を握っていたため、将軍職就任当初は二元政治が行われています。
27歳で将軍に就任した徳川秀忠が、初代家康による将軍職の指導を受けながら、将軍としての権威を強化し幕府の基盤強化に務めており、生真面目な性格が伺えます。
徳川秀忠が行なった政策には、初代将軍から大御所となった家康が背後に控え、武家諸法度、禁中並公家諸法度などの法令の発令など、さまざまあります。
家康と秀忠の二元政治によって行われた政策や、徳川秀忠独自の政策など、秀忠の性格を含めて紹介します。
徳川秀忠が将軍として行なった政策には?
二代将軍徳川秀忠は、江戸幕府と豊臣家との天下統一の最後の戦いとなる大坂の陣に父家康と共に臨み、将軍後継者としての存在感を示しています。
将軍職を継承した徳川秀忠は、大御所となった家康に政治の主導を握られながらも、二元政治によって、「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」などの法令の制定、領地宛行状の発布、キリスト教を禁止する禁教令などを実施しています。
徳川秀忠の行なった政策には、大御所となった家康の意向と権威を背景としたものが多く、秀忠の独自の政策は、家康の死後に発揮されます。
大御所の家康の死後、徳川秀忠は、家康の命を受けてつくられた「武家諸法度」の基本的な内容は変えずに、改訂版となる法令を発し、それ以降の将軍職交代の時期に改定された「武家諸法度」が制定されています。
徳川秀忠の行なった幕政運営での政策には?
徳川秀忠が行なった武家諸法度や禁中並公家諸法度には、武士が守るべき基準と公家が守るべき基準となる基本法令を定め、幕府の権威基盤を固める目的が垣間見れます。
「武家諸法度」では、諸大名の新規築城や補修に幕府の許可を必要とし、大名同士の連携を防ぐための結婚にも幕府の許可を必要とするなど、諸大名の勢力を削ぐための対策がとられ、参勤交代がその象徴的な政策となっています。
しかも、家康の意向を受けた徳川秀忠の政策である「禁中並公家諸法度」は、天皇を中心とした朝廷の公家たちに対して、幕府の独立性を確保するために守るべき基準となる法令を定めており、幕府の権威を示したといえます。
徳川秀忠の政策の背後には、父家康の意向が反映され、将軍職を就任した秀忠がその以降に背くことがなかったのには、大御所となった家康に対する憧れが強く、温厚な性格だったと推測されます。
徳川秀忠の性格は、正室として迎えた6歳年上のお江との関係性を残した史料からも、温厚で生真面目さがわかります。
徳川秀忠の二代目将軍としての功績は?
徳川秀忠が二代目将軍として行なった政策には、大御所となった家康の意向を反映したものが多く、独創性はなく現状を的確に把握した法の整備を行なっています。
「武家諸法度」と「禁中並公家諸法度」の二つの法令は、武家と公家のそれぞれが守る基準となる法律で、幕府の独立性と基盤を固める役割を果たしています。
生真面目で温厚な性格だったといわれる徳川秀忠は、正室のお江に対しても、実直といえる対応をみせて正式な側室を抱えていません。