徳川秀忠と妻江との夫婦仲は?

徳川幕府の歴代将軍の中で、側室を持たず正室との夫婦関係のみを継続した将軍には、二代将軍の徳川秀忠、七代将軍の家継、十四代将軍の家茂の三人です。

七代将軍の家継はわずか7歳で亡くなっているため、側室どころか正室を迎えておらず、十四代将軍の家茂は、公武合体の政略のために皇女和宮を正室に迎えたため、朝廷の手間もあり側室を設けることもなく、家茂の人柄から夫婦仲も良かったといわれています。

初代家康の後を受けて将軍職についた二代将軍徳川秀忠は、大河ドラマでも取り上げられたお市の方の娘であるお江を正室に迎えて、正式な記録上は側室を持っていません。

戦国時代の因縁を感じさせる徳川秀忠とお江の夫婦関係や、二人に関わる事柄について紹介します。

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徳川秀忠の正室と側室の記録には?

二代将軍となった徳川秀忠の正室と側室の記録には、お江が正室とされていますが、実際には、お江との婚姻の前に「小姫」との縁組がなされています。

「小姫」は、織田信長の次男である信雄の実の娘で、豊臣秀吉の養女となった経緯があり、縁組がなされた小姫の年齢がわずか6歳だったことから、明らかな政略結婚です。

しかし、縁組みの話の出現後に、小姫の実父である織田信雄と養父の豊臣秀吉の関係性がこじれたため、婚礼前に徳川秀忠と離縁しており、小姫は7歳で亡くなっています。

本来ならば、徳川秀忠の最初の正室が「小姫」とされれば、お江は継室にあたりますが、婚礼前の縁組が破談となっているため、正式な記録上には「お江」が正室とされています。

徳川秀忠とお江との夫婦関係には?

徳川秀忠の正室となったお江は、浅井長政とお市の方との間に生まれた三女で、佐治一成との最初の結婚を豊臣秀吉によって離縁させられ、二度目となる豊臣秀勝との婚姻も秀勝の死去により死別しています。

お江は、徳川秀忠との結婚が三度目となり、年齢も6歳上だったこともあり、徳川秀忠の頭が上がらないほどの恐妻だったといわれています。

徳川秀忠は、真面目で大人しく律儀な人物だったとされ、嫉妬深いとされた年上のお江に対しての遠慮からか、側室を持つことはなかったとされていますが、大奥の下級女中であるお静が秀忠の子供を産んでいて、側室に認めることはなく、保科家の養子として育てられています。

徳川秀忠とお江の夫婦仲を明言した記録は残されていませんが、二人の間に子供が七人生まれ、お江が亡くなった後に、秀忠が後添えを迎えることなく過ごしていることからも、夫婦仲が推測されます。

徳川秀忠とお江との夫婦仲は?

徳川秀忠と正室のお江の夫婦仲を明言した記録は存在しないものの、二人には七人の子供が生まれ、年上のお江の死去後に継室をとらなかった秀忠の状況から、二人の仲が悪くはなかったと推測されます。

お江は、浅井長政とお市の方の三女として、織田信長と豊臣秀吉の元で戦国を生き抜いた女性であり、徳川秀忠よりも6歳も年上だったこともあり、恐妻だったことは容易に想像できます。

徳川秀忠に正式な側室が存在していないのは、正室であるお江の嫉妬深い性格の影響や、秀忠の律儀な性格のためなど、さまざまに推測されますが、子供七人を残した事実が二人の夫婦仲を語っているように思えます。

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