徳川家の家臣団は、徳川家康が桶狭間の戦いをきっかけに今川から独立を果たした頃には、家康旗本衆と東三河衆、西三河衆の三備の軍制を構築し、その後、信長の死をきっかけに五カ国を領有する状況となるなか、徳川四天王が台頭しています。
本多忠勝、酒井忠次、榊原康政、井伊直政の四人が徳川四天王と呼ばれ、それまでの三備の軍制によるエリア毎の旗頭を置く編成は継続されたと考えられます。
徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利した後、外様大名に対する改易や転封により、諸大名らの配置が大きく組み替えられ、家康と徳川秀忠による二元政治がはじまります。
その中でも、徳川四天王、さらに徳川三傑にあげられた本多忠勝が、家康と徳川秀忠の幕政においてたどった家臣としての立場などを紹介します。
本多忠勝の徳川家康との関わりは?
徳川家康が、桶狭間の戦いをきっかけに今川から独立して三河国を統一した頃に、三備の軍制を構築し、家康を護衛する馬廻衆と旗本先手衆に分けられた家康直属の部隊である家康旗本衆の一人に、本多忠勝が名を連ねています。
徳川家康が豊臣秀吉に従属する大名となり、関東へ移封されると、本多忠勝は、上総国大多喜に10万石を与えられた家臣として優遇を受けています。
本多忠勝は、徳川家康が三河国を統一する時点から天下人となるまで、最も側近にいた家臣の一人で、家康と徳川秀忠の二元政治において、幕閣の中心から外され伊勢桑名への転封となります。
本多忠勝にまつわる逸話には?
天下の三名槍の一つである蜻蛉切を持つ本多忠勝は、名前のとおり、敵なしの最強武将として知られています。
本多忠勝が軍事訓練で騎乗する姿は、「三河の飛将」と崇められ、姉川の戦いでの単騎駆けで「日本の張飛」と畏れられています。
しかも、本多忠勝の戦場での容姿は、大河ドラマでも演出される「鹿角脇立兜」を被り、動きやすさを重視した「当世具足」と呼ばれる「黒糸威胴丸具足」を身に付け、柄の長さが2丈という長尺の蜻蛉切を二本持っていたとされ、黒を基調とした武将姿は無骨という言葉で表現されます。
徳川四天王の一人として関ヶ原の戦いをむかえた本多忠勝は53歳となっており、それまでの戦さの経験から敵の動向を読み、年齢を感じさせない武勇を発揮しています。
家康の駿府と二代将軍となった徳川秀忠の配下には、徳川四天王や徳川三傑と呼ばれた本多忠勝の名はなく、江戸から遠ざけられています。
徳川家康を天下人にするために貢献した本多忠勝
桶狭間の戦いを初陣に戦国武将としてのキャリアをスタートした本多忠勝は、関ヶ原の戦いで雌雄を決する徳川家康の天下人となる過程において欠かすことのない武将です。
徳川家康の三河国の統一から天下統一まで、「鹿角脇立兜」を被り、黒を基調とした当世具足に身を包んだ本多忠勝は、敵武将にとっては脅威を感じさせる無骨さを持ち、八面六臂の活躍を果たしています。