徳川家光が日光東照宮に行なった元和の造営

平成11年12月に世界文化遺産に登録された日光東照宮の社殿群ですが、現在の社殿群は江戸時代の寛永年間に建て替えられたものです。

日光東照宮は、元和3年に徳川家康を御祭神として祀る神社として、二代将軍秀忠によって社殿が創建され、三代将軍徳川家光が元和の造営と呼ばれる大規模改築を施し、豪華な造りの建物群を作り上げています。

徳川家康と徳川家光のお墓がある日光東照宮は神社にあたり、浄土宗を信仰する家系の徳川家のお墓が神社にあることは不思議ですが、それには天海僧正と朝廷との関わりに理由があります。

芝の増上寺を菩提寺に決めた徳川家康のお墓が日光東照宮に作られている理由や、徳川家光のお墓も家康のそばにある理由などについて紹介します。

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徳川家康のお墓が故郷の久能山から日光山へ移されたのは?

徳川家康は菩提寺を芝の増上寺に決めているため、お墓も菩提寺に作られるのが一般的ですが、家康は遺言に「葬儀は芝の増上寺で行い、遺体は久能山におさめ、位牌を故郷の大樹寺に置き、一周忌法要を終えたら日光山に小さな堂を建てて祀りなさい」といった趣旨を残しています。

徳川家康は、古来からの富士山信仰から家康の棺を故郷の久能山から富士山を経由して日光に移すことで神格化し、死後も幕府に影響を与える意図があったと推測されます。

神社に墓所を置くことは一般的ではありませんが、徳川家康が亡くなった後、天台宗の天海僧正が朝廷に働きかけ、御水尾天皇から家康に「東照大権現」の神号を宣下されます。

これにより、日光東照宮は徳川家康を御祭神に祀る神社となり、全国各地に東照大権現を祀る神社が創建されています。

徳川家光と日光東照宮との関わりは?

徳川家康の遺言に沿って、久能山への埋葬と一周忌法要後の日光山への棺の移送をし、日光東照宮に社殿を作ったのは、二代将軍となった秀忠によるものです。

徳川秀忠によって創建された社殿は、家康の遺言にある「小さな堂」という言葉どおりにつくられ、現在残されるような豪華絢爛な社殿群となったのは、家康を神の如く尊敬する3代将軍徳川家光によるものです。

徳川家光による日光東照宮の大改修は、家康の21回忌法要を機会に、約1年5ヶ月という短期間に多額の金額を使い、当時の最高水準の建築技術と技巧を駆使して創建され、元和の造営といわれています。

将軍後継問題に家康の鶴の一声で将軍就任が決定した徳川家光は、祖父家康に対する尊敬の念が強く、48歳で亡くなる前の遺言にも、死後も家康公のそばで御仕えしたいと残しており、その意を汲んだ4代将軍家綱によって家康公の墓のそばに葬られています。

徳川家光によって豪華な建造物となった日光東照宮

徳川家康のお墓として作られた日光東照宮の社殿は、家康の遺言に沿った「小さな堂」を息子で二代将軍の秀忠により作られています。

生前の家康と日光を結んだのは天台宗の天海僧正で、徳川家康に東照大権現の号が授与される様に朝廷に働きかけた天海僧正により、家康が神格化されます。

徳川家康の鶴の一声によって将軍職就任が決まった徳川家光は、家康に対する尊敬の念が強く、その恩に報いるために、家康の墓のある日光東照宮を現在残される様な豪華な建物に創建しており、その創建期間の短さやかかった経費の大きさから、元和の造営と呼ばれています。

徳川家光のお墓も、家光の遺言に沿う形で、日光東照宮の家康の墓のそばに葬られています。

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