徳川秀忠の大坂の陣での奮闘には何があったのか?

徳川幕府2代将軍となった徳川秀忠の戦歴は、関ヶ原の戦いの初陣と大坂冬の陣と夏の陣の参戦であり、関ヶ原の戦いでは開戦に遅刻する大失態を演じています。

関ヶ原の戦いでの遅刻には、信州上田城での真田昌幸という分の悪い相手との真っ向勝負となったためで、戦わずして逃げることもできなかったためです。

初陣での失態により、徳川家康は体調不良を理由にして、秀忠に合わない嫌がらせをしています。

徳川秀忠のトラウマとなった初陣での大遅刻は、天下統一のための最後の戦いとなる大坂の陣での勢い込んだ戦い方につながります。

スポンサーリンク
tokugawa-history.comレクタングル大

大坂の陣でも家康の叱責を受けた徳川秀忠

初陣となった関ヶ原の戦いで、信州上田城での真田昌幸の巧妙な戦術による大敗を期したうえ遅刻した徳川秀忠は、二度目の戦となる大坂の陣では、勢いすぎたのか、自軍の大阪への進軍を急ぎすぎています。

そのため、大阪に到着した兵たちは戦える状態になく、家康から無駄に急いで兵を進軍させたことで叱責を受けていて、家康の陣営は秀忠の陣営の到着前に着陣していたために、家康が不機嫌だったとも言われています。

何れにせよ、戦さの経験がない徳川秀忠が、初代将軍の父家康の実戦経験に対する劣等感や、諸大名に対しての見栄もあり、大坂の陣での総攻撃を願い出る積極性を示したと考えられます。

戦さの経験から、家康は味方の損害を減らして勝利するために、敵方を神経戦や心理戦術を利用して弱体化させる意図があったと推測でき、秀忠の総攻撃主張をたしなめています。

徳川秀忠の名誉挽回にはならなかった大坂の陣

徳川秀忠の最後の戦さとなった大坂夏の陣では、関ヶ原の戦いと大坂冬の陣での進軍の急ぎ過ぎでの失態を取り返すべく、秀忠が先陣を主張しています。

史実では、大坂の陣での最激戦となった天王寺口での先陣を務めたのが家康となり、徳川秀忠は名誉挽回できませんでした。

徳川秀忠は、武将として戦い活躍する場を求めていたかもしれないと推測されるのには、戦が始まると銃弾が飛び交う最前線に行きたがったと言われ、彼の遺骨には銃創によるものと思われる傷も残っていたそうです。

徳川実紀では、徳川秀忠には武勇や知略を評価できる戦さの経験も少なく、評価も乏しく、温厚な人物である評価で弁護されています。

徳川秀忠が名誉挽回をはかった大坂の陣

徳川秀忠には、父である初代将軍家康のような豊富な戦さの経験や実績もなく、そのため武将としての戦さでの活躍を欲したと想像されます。

初陣となった関ヶ原の戦いへ向かう際の、信州上田城での真田昌幸との戦いによる大遅刻の失態がトラウマとなったように、豊臣家との大坂の陣での戦いにおいても、空回りしています。

大阪へ向かう陣営の進軍を急ぎ、兵を疲弊させて家康の叱責を受け、先陣を務める主張はしたものの、最激戦となった天王寺口での先陣は家康が務め、秀忠の名誉挽回にはつながりませんでした。

スポンサーリンク
tokugawa-history.comレクタングル大

tokugawa-history.comレクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする