徳川家綱が行なった政治とは?性格は?最後は?

3代将軍徳川家光と側室お楽の方との間に長男として生まれた徳川家綱は、父家光が脳梗塞により46歳で亡くなり、わずか11歳で将軍職を継承しています。

徳川家光の死去直後に、由井正雪や丸橋忠弥らによる慶安の変が起こるなどして政情不安になりますが、保科正之や大老の酒井忠勝などが、徳川家綱を補佐して危機を乗り越えています。

徳川家康、秀忠、家光と三代にわたる武力を背景とした統治体制の武断政治から、徳川家綱の時代には法体系を中心とした文治政治への移行が行われています。

4代将軍徳川家綱の行なった政治や、家綱の性格、最後を迎えた状況などについて紹介します。

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徳川家綱の性格や人柄には?

父家光の死去に伴い、わずか11歳で4代将軍となった徳川家綱は内向的で、体も丈夫ではなかったため、従兄弟の叔父にあたる保科正之をはじめとした重臣たちが政治を補佐していて、家綱は「左様せい」と了承するだけだったとも言われています。

しかし、家臣の落ち度を責めることもなく、明暦の大火の復興に取り組むなど、人情味のある将軍の一面を残しています。

「文武太平記」によれば、家綱は絵画や魚釣りを好んだ温厚な人柄だったといわれ、小姓たちのミスに対しても咎められることがないように配慮したと逸話が残るほど、やさしい性格だったようです。

徳川家綱の優しい性格が、父家光まで続いた武断政治から文治政治へと移行する政策にもつながったのかもしれません。

徳川家綱の行なった政策や政治には?

徳川家光の最後を受けて将軍となった徳川家綱の将軍職当初は、ほとんどが保科正之らに主導された政治が行われ、幕府体制整備が進められ、末期養子の禁を緩和し、大名承認制度の廃止や殉死禁止令などが出されています。

保科正之ら重臣の死去や隠居によって、酒井忠清が大老に就任した徳川家綱の治世後半では、寛永の飢饉に対する反省から農政に重点を置いた対策が取られています。

また、明暦の大火の教訓から、現在東京にある「両国橋」を作らせ、橋のたもとには火除け地を設けさせています。

明暦の大火では、被害にあった武家屋敷や神社仏閣に対する資金援助をした逸話が残され、歴代将軍の中でも優しい性格だったと推測されます。

享年40歳で最後を迎える徳川家綱の死因は不明ですが、心臓発作や脳膜炎といった急性の病気だったといわれ、父家光の最後の状況と似ています。

武断政治から文治政治への転換をはかった徳川家綱

わずか11歳で4代将軍に就任した徳川家綱は、保科正之ら重臣たちが主導してくれる政治に対して「左様せい」と承諾する人情味のある優しさを持つ性格の将軍だったようです。

家康、秀忠、家光と続いた武断政治を文治政治へと転換させた徳川家綱は、幕府の機構整備や職制の整備を進めています。

それまでの歴代将軍とは違い、保科正之をはじめとした家臣らに主導されながら政治を行った徳川家綱は、その人柄と性格で幕府運営を行なった将軍とも言えそうです。

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