徳川家茂とは?

徳川家茂とは、尊王攘夷論の高まりにより幕府の権威が失墜する中、14代将軍をめぐる将軍継嗣問題の渦中に巻き込まれ将軍となった人物です。

紀州藩主徳川斉順の次男として、江戸の紀州藩邸に生まれた徳川家茂は、将軍職就任以前には、慶福と名乗り、波江という養育係に育てられています。

幕府上層部への辛辣な批判をする勝海舟が、徳川家茂が亡くなった際の日記に「家茂様薨去、徳川家本日滅ぶ」と記すほど、評価していたようです。

第二次長州征討の最中、21歳という若さで急逝した徳川家茂とは、どんな人生を送ったのか紹介します。

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目次

将軍継嗣問題に巻き込まれた徳川家茂

ペリーの4隻の黒船が浦賀沖に姿を現し、日本国内では尊王攘夷論の高まりが武力倒幕派に変化し、幕府内では、13代徳川家定が病弱だったために正室篤姫との間に後継が期待できず、将軍継嗣問題が持ち上がります。

そのため、島津斉彬、松平慶永、徳川斉昭らの一橋派が推す一橋慶喜と、南紀派と呼ばれる勢力が推す徳川家茂による将軍職争いが起こっています。

南紀派が将軍職に推す徳川家茂とは、家定との血筋が最も近い人物で、徳川幕府が血統による将軍継承を行なってきたことを重視した主張で、大老となった井伊直弼による独断ともいえる決着がつけられ、後の桜田門外の変にもつながっています。

大老井伊直弼の決定により14代将軍となった徳川家茂は、尊王攘夷論に対して、欧米列強に対抗するため公武合体をすすめようとします。

公武合体と長州征討に奔走した徳川家茂

14代将軍となった徳川家茂とは、欧米列強に対抗するため幕府と朝廷、有力諸藩が一体となる公武合体をすすめようとし、光明天皇の妹である和宮を正室に迎えています。

将軍として230年ぶりの上洛を果たした徳川家茂は体調を崩したために、光明天皇に対して攘夷の約束のみをして江戸に戻り、翌年再度の上洛していますが、公武合体は実現に至っていません。

その後、禁門の変による長州藩の御所襲撃を受けて、長州征討が始まり、第二次長州征討の実行に赴いた徳川家茂は、大阪城でインフルエンザの感染のため急死しています。

徳川家茂とは、失墜する幕府権威を自覚し、欧米列強に対抗するための海軍の必要を認識していた人物で、時代の変化を感じていたと推測できます。

享年21歳で亡くなった徳川家茂とは?

享年21歳という若さで亡くなった徳川家茂とは、紀州藩主の次男として生まれたものの、家定の将軍継嗣問題に巻き込まれる形で14代将軍となった人物です。

将軍として230年ぶりの上洛を果たし、実現はできませんでしたが、権威の失墜が感じられる幕府と朝廷を一体化して欧米列強に対抗するための公武合体をすすめます。

公武合体の一環として、光明天皇の妹にあたる皇女和宮を正室に迎え、武家を嫌う和宮の気持ちを変えた徳川家茂の人柄の良さや人間力の高さは、勝海舟との関係性にも感じられます。

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