徳川家茂と主治医の松本良順

江戸幕府の大政奉還を成し遂げた最後の将軍徳川慶喜はよく知られる存在ですが、230年ぶりに将軍として上洛し、公武合体政策の推進をはかった徳川家茂は、享年21歳という若さでの死を迎えた14代将軍です。

第二次長州征伐の間に病に倒れた徳川家茂の治療にあたり、大阪城で家茂の最期を看取った医師が松本良順です。

松本良順は、幕末には徳川家茂と慶喜の御殿医として、明治時代初期には、日本の陸軍軍医制度を確立した人物としても知られ、新選組の隊士の回診も行い沖田総司らとも親交があったとされます。

勝海舟がその能力の高さを認めた徳川家茂と、家茂の最期を看取った松本良順に関することを紹介します。

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幕末から明治で医師だった松本良順とは?

松本良順は、上総国桜藩医の佐藤泰然の次男として生まれ、幕府医官の松本良甫の養子となっています。

17歳の時には、父佐藤泰然の助手として卵巣手術をはじめとして、乳がん、脱疽、痔ろうなどの切開手術に立ち会うなど、松本良順が西洋医学に駆り立てる環境にありました。

そのため、26歳の時に幕命で長崎に行き、オランダ軍医ポンペの医学伝習生の責任者となり、長崎養生所・医学所に携わっています。

江戸へ戻った良順は、幕府の医学所二代目頭取として緒方洪庵を補佐し、徳川家茂の御殿医となり、第二次長州征伐で体調を崩した家茂の治療にあたり最期を看取っています。

21歳の若さで亡くなった徳川家茂の病は?

京都の朝廷との公武合体政策を推し測るために上洛した徳川家茂は、この時体調を崩したため一旦江戸へ戻り、再上洛するものの、将軍後見職の慶喜の動きにより公武合体が頓挫します。

その後、尊王攘夷を掲げる長州藩が御所を襲撃する禁門の変が起き、朝廷の怒りは、佐幕派だった長州藩に対して幕府へ討伐命令が下り第一次長州征伐が始まります。

元治元年の第一次長州征討は、長州藩が家老らに切腹させて恭順の意を表したため、一旦は終結をみせますが、翌年には第二次長州征討が行われます。

第二次長州征伐では、薩摩藩の西郷隆盛が倒幕を視野に入れた動きを模索していたためか、幕府軍の敗北に終わり、そんな中で、大坂城内で松本良順に治療を受ける徳川家茂は、21歳の若さで人生の幕を閉じています。

徳川家茂の死因は、うっ血性心不全とされていますが、これには長州征討などによる過労と脚気が原因とされます。

そもそも、徳川家茂は甘い物好きで、ほとんどの歯が虫歯だったともいわれ、それが脚気を引き起こし、全身の健康状態を悪くしたと考えられています。

徳川家茂の最期を看取った御典医の松本良順

公武合体政策に乗り出した徳川家茂が上洛後に、禁門の変と呼ばれる長州藩による御所への襲撃が起き、朝廷からの命を受けた幕府による長州征討が始まります。

2回にわたる長州征討による過労がたたったのか、徳川家茂は大阪城で御典医の松本良順に治療されるものの、享年21歳の若さで亡くなっています。

徳川家茂の死因は複合的ですが、ほとんどの歯が虫歯であったことが脚気を引き起こし、ストレスなども重なり心不全により亡くなったと考えられます。

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