13代将軍徳川家定が病弱で言語障害も抱えていて、跡継ぎがいない状況から、一橋慶喜と徳川家茂の将軍後継をめぐる政争が起きています。
一橋慶喜を押す一橋派と徳川家茂を押す南紀派の対立は、大老に就任した井伊直弼の決定により、徳川家茂が14代将軍に就任しています。
わずか13歳で将軍に担ぎ上げられた徳川家茂は、第二次長州征討の最中に21歳という若さで亡くなっていますが、約8年の在任期間で動乱の幕末に大きな功績を残しています。
徳川全将軍の中でも、わずか8歳で亡くなった7代将軍家継に次ぐ若さで亡くなった徳川家茂が行なった政策や、正室との関わりからもわかる性格などを紹介します。
徳川家茂が行なった政策には?
幕府の権威が失墜し、尊王攘夷論の高まりや武力倒幕派が台頭し始めた動乱の時期に、将軍継嗣問題による政争で担ぎ出されて14代将軍となった徳川家茂は、公武合体と文久の改革といった政策に取り組み、さらに二度にわたる長州征伐のための武力行使も行なっています。
井伊直弼の決断によって誕生した14代将軍徳川家茂でしたが、桜田門外の変による井伊直弼が暗殺されると、将軍徳川家茂に対して、島津久光が光明天皇の勅使を利用して公武合体を主張し、幕府の改革を進言しています。
徳川家茂が行なった政策として、安政の大獄により弾圧を受けた一橋慶喜や松平慶永、松平容保らを幕閣に戻し、軍隊制度を西洋式に変更し、参勤交代を3年に一度にするなど、文久の改革と呼ばれる改革をしています。
文久の改革の一環として、将軍職として230年ぶりに京都へ上洛し、朝廷に攘夷の約束をしていますが、公武合体の政策は実現できませんでした。
皇女和宮とのかかわりからみえる徳川家茂の性格
徳川家茂が将軍として行おうとした朝廷との公武合体に向けた一環として、光明天皇の妹にあたる皇女和宮を正室に迎えています。
皇女和宮は、外国人を嫌い、武家との婚姻を嫌い、朝廷と同様の生活を望んでいたと言われ、徳川家茂との政略結婚を渋々受け入れたと思われます。
しかしながら、家茂の和宮への細やかな気配りや気遣いから、次第に二人の関係は良好なものだったとされ、徳川家茂が第二次長州征討で亡くなる前に、和宮へのお土産として準備していた西陣織が、形見として和宮に届けられ、和宮は家茂の追善供養の袈裟に仕立てています。
徳川家茂と皇女和宮の関係構築からも、家茂の優しく気が効く性格がわかり、勝海舟が日記などに記しているように頭の良さもあった将軍だったようです。
幕末の動乱期において徳川家茂が行なった政策
わずか13歳で将軍継嗣問題により南紀派に担ぎ出されて将軍となった徳川家茂は、失墜した幕府の権威を認識しながら、朝廷と幕府の一体化をはかり、欧米列強に対抗する政策として公武合体を模索しています。
二度の京都への上洛と二度の長州征討への武力対応と、約8年という将軍職在任期間で奔走しており、将軍職としての責任感の強さや思慮深い性格が推測できます。
また、公武合体の政策実現の一環として、皇女和宮を正室に迎え、当初武家を嫌った感情の和宮の心をほぐしたのも、徳川家茂の優しくて気が効く性格が影響したと想像されます。