徳川家茂と皇女和宮の夫婦仲は?

徳川家茂が江戸幕府の第14代将軍に就任した日本の状況は、ベリーの黒船来航により外国の軍事力と技術力に圧倒されて日米和親条約と日米修好通商条約が締結される時期で、国内は混乱と混沌とした政治情勢にありました。

困窮しはじめた民衆の生活は幕府への不満を高め、尊王攘夷運動も高まりをみせ、徳川家茂は、老中安藤信正が推す公武合体政策を模索しています。

徳川家茂と和宮は、江戸幕府が朝廷と幕府を結びつけて支配体制を強化する思惑を庶民へ示すための効果を期待した政略結婚で夫婦になっています。

享年21歳という若さで人生を閉じた徳川家茂と政略結婚で夫婦となった皇女和宮の二人について紹介します。

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徳川家茂との結婚への和宮の覚悟は?

幕末の尊王攘夷運動の高まりのなか、幕府への庶民の不満の高まりもあり、状況を改善するために徳川家茂は、老中の安藤信正の進言に基づいて公武合体政策をはかります。

光明天皇の妹である和宮と将軍家茂が夫婦となり、朝廷と幕府を結びつける公武合体により支配体制の強化を民衆に示しています。

光明天皇は大の異国嫌いとして知られ、その妹である和宮も同様だったと推測され、わずか6歳で決められた有栖川宮熾仁親王という婚約者がいた和宮は、御所育ちということもあり、武家との結婚にはかなり抵抗しています。

そのため、結婚の条件に「御所風の生活ができること」を挙げていましたが、光明天皇の説得により、「惜しましな 君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも」という歌を詠んで、和宮が命がけで徳川家茂との結婚に臨んだと推察できます。

徳川家茂と和宮との夫婦仲は?

徳川幕府のおかれた窮地を脱するための公武合体政策の一環としての政略結婚で夫婦となった徳川家茂と和宮でしたが、夫婦生活は良好だったといわれています。

政略結婚で夫婦となった徳川家茂と和宮の良好な関係には、家茂の和宮に対する思いやりが大きく影響していたと思われ、一人の側室を置くことがなかったこともその表れです。

和宮も徳川家茂の誠実な人柄に徐々に情が湧き、公武合体政策のための上洛の際には、お百度を踏んだ逸話が残され、第二次長州征討の際に、大阪城で病に倒れて亡くなった徳川家茂は、和宮へのお土産として京の西陣織を準備させていましたが、和宮は形見として受け取り、家茂の追善供養のための袈裟に仕立てています。

享年21歳という若さで人生を閉じた徳川家茂と和宮の夫婦としての生活は短いものでしたが、和宮が亡くなったら家茂の側に埋葬してほしいと残したことにも、夫婦の仲がわかります。

幕末という時代に翻弄された徳川家茂と和宮の夫婦

ペリーの黒船来航によって、それまでの徳川幕府の権威は失墜しだし、尊王攘夷論の高まりによる過激派倒幕運動で治安の悪化した京都の状況を打破するために、徳川家茂は公武合体政策を模索します。

朝廷と幕府を結びつけて支配体制強化をはかる幕府の意思を民衆に示すために、徳川家茂と和宮の政略結婚が成立します。

御所暮らしの和宮は、武士や異国といったものを嫌っていたと思われ、当初は結婚を拒否していました。

徳川家茂が、歴代将軍たちとは違い側室を置くことなく、和宮に対する思いやりをみせた生活を送ったことで、二人の夫婦仲は良好だったといわれ、短い夫婦生活だった和宮が死後家茂のそばに葬ってほしいと遺言していることが、二人の仲を示しています。

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