徳川家継と生母である月光院のかかわり

徳川家継は、父である6代将軍徳川家宣がインフルエンザに倒れて急逝し、家継の兄たちがなくなっていたために、わずか4歳という幼さで将軍職に就任しています。

病床にあった家宣は、まだ幼い家継の次期将軍職就任を反対し、尾張の徳川吉通に後継者を指名していますが、側近の新井白石が画策して幼少の家継を将軍職に就任させています。

わずか4歳の家継に幕府運営のための政治を行うことは難しく、側近の新井白石が主導して幕政を動かす意図が見え、将軍生母となった月光院も大奥での勢力を強めています。

幼少の徳川家継を担いだ側近の新井白石や間部詮房、将軍生母となった月光院の動向などについて紹介します。

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徳川家宣の遺言を違えた新井白石による側近政治

徳川家宣は、インフルエンザと思われる感冒に感染し急死したとされ、その病床でまだ幼い徳川家継の将軍職就任を反対するものの、家宣の死後、側近の新井白石が幕閣を説得して家継の将軍就任を実現させ、新井白石による側近政治と間部詮房が家継の世話役となっています。

徳川家宣がすすめていた「正徳の治」を、新井白石が引き継ぎ、綱吉時代に発行された金本位制の貨幣である元禄小判によるインフレの抑え込みをはかり、勘定吟味役の復活による幕府役人の汚職や不正の撲滅をはかり年貢の増収をはかるなどしていますが、その成果をあげることはできていません。

側近政治を行うことで、実質的な幕政運営を主導する新井白石と世話役の間部詮房の大奥への出入りは、次第に周囲の反感を強くしています。

月光院も将軍生母となったことで大奥での勢力を強めますが、徳川家継の世話役になった間部詮房との関わりと側近によるスキャンダルによって、その勢力が衰えます。

天英院と月光院の将軍継嗣をめぐる対立は?

徳川家宣の正室と側室にあたる天英院と月光院は、大奥での勢力争いを繰り広げていて、わずか4歳といえども将軍職に就任した徳川家継の将軍生母となった月光院は大奥での勢力を強め、家継の世話役となった間部詮房との大奥での振る舞いには周囲が嫌悪感を次第に強めています。

家継が将軍となった翌年に、月光院の側近だった江島が歌舞伎役者との密通した江島生島事件が起き、月光院の勢力は急激に衰え、家継の世話役である間部詮房と新井白石の勢力も次第に陰りをみせます。

徳川家継の後継将軍に天英院は紀州藩主の徳川吉宗を推し、家継の後を受け継いで将軍となった徳川吉宗は大奥の縮小を命じ、吉宗を生んだ大奥はその権威を失っていきます。

幼少の徳川家継が将軍職に就任したために、側近政治と大奥での勢力争いが起き、結果的には家継の短い生涯で、次期将軍となる吉宗に託されることとなっています。

わずか4歳で将軍になった徳川家継と将軍生母の月光院

わずか4歳で将軍になった徳川家継は、幼いながらも聡明で、新井白石による将軍職に必要な教育にも応じ、間部詮房を実の父のように慕っていたといわれます。

とはいえ、わずか4歳で幕府運営に必要な政治を行うことは無理で、新井白石と間部詮房が主導した側近政治が行われています。

徳川家宣の側室だった月光院は将軍生母となったことで、大奥での勢力を強め、家宣の正室天英院との対立を生じています。

家継の将軍就任の翌年には、月光院の側近である江島が歌舞伎役者との密会をしたというスキャンダルによって、月光院の勢力は急激に衰え、家継の後継に吉宗を推した天英院が大奥での勢力を強めています。

しかしながら、将軍職に就任した徳川吉宗は、大奥の縮小を命じ、それまでの大奥の権威と絢爛さは失われます。

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