徳川家光が行なった貿易に関する政策とは?

徳川家光は、江戸幕府三代目の将軍として家康と秀忠がつくった江戸幕府による統治制度を確固たるものにし、将軍家の勢力強化をはかることに成功しています。

江戸幕府が260年にわたり、徳川家が将軍職として継続するための土台がための重要な役割を果たした徳川家光は、武家諸法度の一部改正、参勤交代、日光東照宮の建立、島原の乱の制圧といった国内対策に手腕を発揮しています。

また、それまでの海外との貿易のあり方に制限を加え、オランダと中国の二国のみを長崎の出島での貿易に限定した鎖国体制を確立しています。

徳川家光が行なった外国との貿易政策である鎖国に関わることを紹介します。

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徳川家光が貿易に制限をかけた鎖国とは?

徳川家光によって完成された鎖国は、家光の父秀忠の時代から段階を踏んで行われており、ヨーロッパからの船の寄港地を平戸と長崎に制限されたのを最初に、スペイン船の来航の禁止、海外からの渡航船にそれまでの朱印状に加えて老中の許可を必要にします。

その後、日本人の渡航や帰国も禁止となり、天草四郎が島原の乱を起こし、これがキリスト教信者との関わりが強かったために、ポルトガル船の来航を禁止したことで鎖国が完成します。

しかし、オランダと中国の二国のみ、長崎の出島での貿易を許していたことから、徳川幕府がキリスト教が広まることへの警戒が解釈できます。

徳川家康が鎖国を行なった理由と影響は?

諸外国との貿易は、その時代における権力者の諸外国との外交関係をいかに構築するかによって左右され、現代でも保護主義の貿易などに注意が払われています。

戦国時代にザビエルが日本に来航して以来、南蛮貿易を行うための前提条件として、スペインやポルトガルからの宣教師の布教活動を認めた諸大名のみが貿易関係を結んでいます。

日本国内における宣教師たちの布教活動により、キリスト教信者の数は増え、一部大名の中にもキリシタン大名と呼ばれるものも現れます。

江戸幕府は、キリシタン大名とポルトガルやスペインが結託し、幕府と対立することを恐れ、貿易を制限することでキリスト教を弾圧しようとしたため、鎖国が必要だったと考えられます。

徳川家光によって完成した鎖国は、長崎の出島でのみオランダや中国との貿易は許され、キリスト教の布教を排除したポルトガルとの貿易も継続していたため、幕府が海外との貿易や接触を管理できるようになります。

ペリーの黒船来航を迎える江戸時代末期まで、日本国内は外国からの侵入や貿易による影響を受けることなく平和な時代が長く続いたものの、外国の新しい技術や物品の流入も管理されたため、諸外国の動向に遅れる結果にもなっています。

徳川家光の鎖国政策による海外との貿易

江戸幕府三代将軍となった徳川家光は、父秀忠が徐々に進めていた海外の船舶の日本への寄港場所や貿易の制限をすすめ、鎖国政策を完成させています。

鎖国によって、キリスト教の布教活動を排除し、キリシタン大名とポルトガルやスペインとの結びつきを断ち、幕府との対立を避けることが目的だったと考えられますが、長崎の出島でのみ、キリスト教の布教を排したポルトガルと中国との貿易は許可しており、海外との接触や貿易のコントロールを可能にしています。

これにより、日本国内は外国からの脅威を防いで平和な時代を長く継続できた反面、世界の動向からは隔絶した社会を形成することとなります。

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