徳川家光が行なった朝鮮に関する外交は?

三代将軍となった徳川家光は、その後約260年間続く江戸幕府の幕藩体制を強固にし、徳川家が将軍職就任が継続可能な制度を作り上げています。

徳川家光の将軍職就任には、家康の鶴の一声で決定されたこともあり、家康への敬愛の情が深く、家康と秀忠が築いた財を日光東照宮などに投じたとする評価も一部であります。

徳川家光が将軍職として行った国内外の政策では、家康と秀忠が行ってきた政策を基盤とした武家諸法度の改訂による幕藩体制の強化と、積み上げられた外交政策を鎖国体制として完成させています。

徳川家光が完成させた鎖国体制の元で行われた海外との外交、特に朝鮮との関わり方などを紹介します。

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徳川家光以前の江戸幕府の外交は?

徳川家光が三代将軍となる以前の江戸幕府の外交や貿易は、家康の時代には、豊後に漂着したオランダ船籍のリーフデ号の乗務員だった三浦按針を外交顧問とし、ヤン・ヨーステンが長崎の平戸での商館開設したことで朱印船貿易が発展します。

徳川秀忠が二代将軍となり、家康との二元政治のもとで、三浦按針とヤン・ヨーステンにより平戸商館、イギリス商館が開設されます。

豊臣秀吉の朝鮮出兵によって国交が断絶していた朝鮮との友好関係復活に向けた交渉を対馬藩の宗氏が仲介し、幕府と朝鮮の間で己酉条約が締結されます。

その一方で、南蛮貿易と共に拡がったキリスト教信者とキリシタン大名が、幕府の対立勢力となることを危惧した徳川秀忠と家光は、貿易や外交交流に制限を徐々にかけています。

徳川家光が完成させた鎖国体制とは?

家康と秀忠の外交政策を引き継ぎながら、徳川家光が完成させた鎖国体制では、スペインとポルトガルからの来航と日本人の出入国を禁止し、貿易を長崎の出島に限定して、オランダと中国にも制限することで、海外との交流に関するすべてを幕府が管理し掌握しようとした対外政策をとります。

徳川家光の鎖国制度では、長崎口、対馬口、薩摩口、蝦夷口と呼ばれる四ヶ所が、外国に向けて解放された場所に限定されています。

長崎口は、長崎の出島を幕府の直轄地として、オランダと中国との貿易窓口とし、対馬口では、対馬藩の宗氏が李氏朝鮮との外交と貿易を担っています。

薩摩口は、薩摩藩が琉球王国を通じた貿易を管理し、蝦夷口では、松前藩の松前氏が蝦夷地での貿易を行っています。

徳川家光の鎖国は、すべての外国との貿易や外交が閉ざされていたわけではなく、豊臣秀吉の時代に中断された朝鮮との外交は、朝鮮通信使が復活します。

徳川家光の時代の朝鮮との関わり

日本と朝鮮との外交関係は、室町時代から朝鮮を荒らす倭寇の取締りの要請のために日本を訪れていた朝鮮通信使がありましたが、豊臣秀吉が朝鮮を攻め込んだため、国交が断絶となり、朝鮮通信使の日本への訪問も中断します。

徳川家光が三代将軍となり、幕府直轄地として長崎の出島に制限したオランダと中国の貿易を行うことで、海外との関係を幕府が掌握するための鎖国体制が構築されます。

そんな中、対馬藩の宗氏が幕府と朝鮮の仲介役となり、外交交流復活に伴い、朝鮮通信使が日本を訪れるようになります。

朝鮮通信使の日本への訪問は、幕府の権威を示すものでしたが、総勢700名ともいわれる使節団の費用負担は両国にとって重く、時の経過とともに簡略化され、ペリー来航やアヘン戦争の影響で終わりを迎えます。

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