徳川家康の子供時代に残る逸話

「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」と詠んだ俳句を残した徳川家康は、子供時代から辛抱を強いられた人生を送っています。

徳川家康の父である松平広忠が支配していた三河の国は、東に今川義元、西に織田信長に挟まれた状況下にあり、難しい領国経営にありました。

松平広忠と水野忠政の娘である於大の方との間に、松平宗家の嫡男として誕生した徳川家康は、幼名を竹千代と名付けられます。

徳川家康の子供時代は、わずか3歳で母と離別し、6歳で人質生活となり、桶狭間の戦いで今川義元が討死するまで人質を強いられています。

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徳川家康の子供時代に度重なる試練

徳川家康の子供時代には、実母との離別、わずか6歳からの織田家と8歳からは今川義元の元での人質生活を余儀なくされる試練が続いています。

わずか3歳での実母とは、母方の叔父にあたる水野信元が、竹千代の父親とは敵対する織田信秀と手を結んだことで、両親が離別したために母親と引きはされます。

その後、織田信秀と勢力争いを続けていた松平広忠が、今川義元に織田軍の侵攻に対する援軍要請をし、今川は援軍の交換条件として、竹千代を人質として要求しています。

わずか6歳で今川義元の要求で、駿府へと送られる仲介に入った田原城主の戸田康光が裏切り、カネで竹千代を織田信秀に売り飛ばしています。

徳川家康の子供時代の人質生活

わずか6歳で駿府の今川義元の元へ人質として送られる途中で、田原城主の戸田氏の裏切りによって、織田信秀に売り飛ばされた竹千代は、父松平広忠の脅迫材料に利用されます。

織田信秀に脅された松平広忠は動じることなく、「息子を殺したければ殺せ、我が子一人のために信念を曲げて隣国に従うことはない」といった意味の回答を返し、織田信秀が感歎したと言われています。

徳川家康の子供時代の6歳から8歳までは、織田家の菩提寺である万松寺で人質生活を送っており、この時、織田信長がしばしば遊び相手となっており、柿を分け与えたりした逸話が残されています。

織田信広と竹千代の人質交換が成立して、8歳の竹千代は、岡崎城主の身分のまま今川義元の人質として駿府へ送られ、駿府の智源院で祖母にあたる於富の方が養育し、今川の軍師の太原雪斎からも教えを受けたとされます。

徳川家康の子供時代の大半を占める駿府での人質生活の詳細については、明確な記録がなく、「松平記」や「武徳編年集成」、「三河物語」などによる諸説があります。

戦国時代ならではの徳川家康の子供時代

徳川家康が子供時代に強いられた実母との別離や織田家や今川家での人質生活は、戦国時代ならではのもので、自分が生まれた環境で自らが選択できる状況にありません。

戦国武将どおしの同盟関係構築の道具として人質生活を強要される武将の子息は、徳川家康に限らず、他の武将にもみられます。

現代であれば考えられない人権問題ですが、こういった戦国大名間での人質のやり取りや主君の死亡による自害なども、徳川幕府が誕生して5代将軍綱吉が文治政治を行うまで続いています。

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