徳川家宣が行なった政治とは?政策は?

甲府藩主徳川綱重の長男として生まれた徳川家宣は、4代将軍徳川家綱と5代将軍綱吉に男子がなかったため、二度将軍後継者候補となり、6代将軍に就任しています。

徳川家宣の将軍就任は48歳の時で、約3年半の将軍在任期間中に行った治世は、7代将軍徳川家継の治世を併せて正徳の政治といわれます。

徳川家光までの武力をもって統治をはかる武断政治から、4代将軍家綱の時代から7代将軍家継の時代において法律によって統治をはかる文治政治への転換がはかられており、徳川家宣の時代は過渡期にあたります。

5代将軍綱吉が推進した文治政治を受け継ぎながら、新井白石による財政改革などを行った徳川家宣が推進した政策や正徳の政治について紹介します。

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徳川家宣が行った世直し政治とは?

6代将軍に就任した徳川家宣は、庶民から不満の多かった先代綱吉の政策を徹底的に排除し、綱吉の独断傾向にあった政治方針とは真逆の対応を行なっています。

徳川綱吉の正徳の治と呼ばれる政治改革を進めたのは、新井白石が主導し、側用人の間部詮房が補佐的な役割を果たしています。

新井白石は、庶民から不満の多かった生類憐みの令を綱吉の死後わずか1週間で廃止にし、萩原重秀が行なった貨幣改鋳による物価上昇を正すために慶長時代に戻す政策として正徳の貨幣改鋳を行い、インフレ状態を脱却できたものの深刻なデフレ状況を招いています。

また、綱吉の時代に廃止された勘定吟味役を復活させ、年貢の徴収での役人の不正防止と徴収量の安定をはかり増加につなげています。

そして、朝鮮通信使の接待儀礼の見直しにより、掛かる費用を抑え、閑院宮家の創設も手がけています。

正徳の政治を行った徳川家宣は?

徳川家綱の時代に端を発した江戸幕府の財政難は、7代将軍家継の時代まで続いた文治政治によって悪化の一途をたどっており、これは、江戸幕府の財源を米に依存していたにも関わらず、米価が他の物価に対して相対的に下落する状況を放置した結果となります。

財政状況の改善は、正徳の政治の影響により、8代将軍の吉宗の改革による改善を待つこととなりますが、新井白石によれば、「君主としてこれほど学問に精通した方はいない」と評されています。

しかも、徳川家宣は温厚な性格で鼻筋が通ったイケメンだったと言われ、庶民からの人気度が高かったことが、綱吉の政策への不満の反動として受け入れられたかもしれません。

先代綱吉の誤りを正そうとした徳川家宣の政治政策

徳川家宣が行った政治は、3代将軍家光の時代までの武断政治から文治政治への転換の過渡期であり、先代綱吉の誤りを正すための政策転換をはかっています。

そのために、新井白石や間部詮房を重用し、正徳の治と呼ばれる政治改革を進めさせ、貨幣改鋳、勘定吟味役、朝鮮通信使、閑院宮家など国内の財政から外交、朝廷の関係に至る問題を解決しようとしています。

徳川家宣が将軍に就任した年齢が48歳ということもあり、歴代将軍の中でも周囲との軋轢を少なくして、幕府政治の過渡期をさまざまな政策でつないでいます。

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