徳川家重と重用した田沼意次との関わり

徳川家重は、8代将軍徳川吉宗の長男として紀州藩で生まれ、生まれつき病弱だったにもかかわらず、幼少の頃から大奥に入り浸り酒を嗜んでいたようです。

幼少からの飲酒による脳性麻痺を発症し、言葉が不明瞭だったようで、大岡忠光しか家重の発する言葉を理解できなかったといわれています。

徳川家重の虚弱体質と言語不明瞭な状態に加え、能楽を好むなど道楽者の傾向が強い性格で、父吉宗が時期将軍職を託すことに苦慮しています。

身体的な問題を抱え、道楽者の傾向が強い徳川家重が将軍職を継承し、側近に置いた老中田沼意次との関わりなどを紹介します。

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徳川吉宗の後継者となった徳川家重とは?

8代将軍徳川吉宗には、長男の家重、二男の宗武、四男の宗尹の三人の男児がおり、生まれつき病弱で言語が不明瞭だった家重よりも、聡明で武芸に秀でた宗武を将軍に推す老中たちも多かったようです。

しかしながら、徳川吉宗は、言語に不明瞭さがあるものの知能は正常であり、人材登用能力に長けていると判断してか、長男の徳川家重に将軍職を譲り、自らも大御所として実権を握っています。

徳川家重に将軍職を譲る際、宗武を将軍に推す老中たちの存在が争いとならないように、吉宗は宗武派の老中たちを解任していて、家重の就任後は、老中田沼意次が政治の実権を握っています。

徳川家重の言葉を理解できたのは、大岡忠光だけだったといわれ、側近に大岡忠光と老中に田沼意次を置いたことが、家重の最大の功績だったかもしれません。

徳川家重を主導した老中田沼意次の政治とは?

田沼意次は、徳川吉宗が紀州藩主だった時代には足軽として仕え、吉宗が8代将軍に就任したのをきっかけに江戸に移り、徳川家重の小姓となっています。

徳川家重の小姓として将軍に仕えた田沼意次は、10代将軍家治に将軍職が継承されると側用人になり、その後老中にまで出世しています。

田沼意次が行なった政策の特徴は、幕府や諸藩から営業の権利を与えられた商工業者の同業組織の株仲間を作らせていて、同業者間での競争防止と利益保護をはかっています。

株仲間の奨励により、営業税にあたる運上金と営業免許税にあたる冥加金を徴収することで、幕府の財政を潤わそうとしています。

また、幕府による貿易に銅座、真鍮座、人参座などの座をつくり専売制にすることで、統制をはかっています。

しかも、利根川水系の手賀沼と印旛沼の干拓工事の公共事業を手がけていますが、洪水による失敗に終わっています。

言語不明瞭な徳川家重を支えた二人の側近

徳川吉宗の後を継いで将軍職に就任した徳川家重には、生まれつき病弱だったうえに、幼い頃から大奥に入り浸り飲酒したための脳性麻痺による言語障害があったとされます。

徳川家重の言葉を唯一理解できたのは、側近の大岡忠光だけで、何事も忠光頼りだったようです。

徳川家重の政治は、田沼意次が実権を握り、株仲間の奨励や貿易における幕府の専売制の確立、公共工事となる干拓工事など、商業を中心として政策を行い、税収を増やしていますが、洪水や浅間山の噴火などの自然災害や飢饉といったことで、その効果は限定的だったといえます。

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