徳川家継の生涯は?死因は?

徳川幕府6代将軍家宣の四男として生まれ、わずか4歳で7代将軍となり、8歳でその生涯を肺炎という死因で閉じた徳川家継は、歴代将軍の中で最年少最短就任期間の将軍です。

徳川家継には、三人の兄と一人の姉がおり、本来ならば、四男の家継が将軍職を継承する可能性は低いのですが、家千代をはじめとした兄たちはいずれも早世しています。

しかも、6代将軍徳川家宣も、徳川家継が誕生して3年で病気で倒れ、その翌年には逝去しており、死因は感冒とされ、今でいうインフルエンザと考えられます。

幼少の身に次々と試練が襲った徳川家継の短い生涯と、わずか8歳という年齢で亡くなった死因などについて紹介します。

スポンサーリンク
tokugawa-history.comレクタングル大

徳川家継の誕生から将軍就任までは?

江戸幕府の第6代将軍徳川家宣の四男として生まれた徳川家継には、家千代、大五郎、虎吉の三人の兄がいましたが、いずれも誕生から1年前後で早世しています。

徳川家継が3歳の時に、父家宣が病床に伏したため、家宣は顧問格の新井白石と側用人の間部詮房に、次期将軍に幼少の家継を就かせることに反対である旨を伝えています。

そのうえで、次期将軍には尾張の徳川吉通を迎えて、家継の処遇を吉通に任せる旨の遺言を残しています。

しかしながら、実際に6代将軍徳川家宣が感冒という死因で亡くなると、新井白石は尾張から徳川吉通が将軍になると、諸大名を巻き込んだ騒乱となりかねないと主張して家継を将軍に推し、朝廷から諱を与えられて将軍職に就かせています。

徳川家継の将軍としての幕政運営には?

わずか4歳で江戸幕府第7代将軍となった徳川家継の傍らには、間部詮房と新井白石が控え、実際の幕府運営には側近の二人が主導してあたり、家継が追認するといった形態をとっています。

幼少だった徳川家継の容姿は、凛々しく聡明だったとされ、幼いながらも自分の立場を理解していたのか、時には大人顔負けの振る舞いを見せたといわれています。

とはいえ、現代でも幼稚園児程度の年齢で徳川幕府の将軍となった徳川家継には、父親代わりのような存在の間部詮房が優しくも厳しく接していたと想像され、ぐずった際には「詮房様が参られます」と告げるとおとなしくなった様子が徳川實記などにも記されています。

幼少の身で将軍となった徳川家継には、7歳の段階で正室候補となる婚約者が決められていたものの、8歳で風邪をこじらせて肺炎という死因によって生涯を閉じたため、正式な婚姻が結ばれることはありませんでした。

幼少の身で将軍職を務めた徳川家継の生涯

徳川家の将軍の中で、兄たちの早生と父家宣のインフルエンザという死因による急逝によって、わずか4歳で7代将軍に就任した徳川家継は、その生涯を間部詮房と新井白石によって翻弄されながら、8歳という幼さで肺炎によって、呆気なくその生涯を閉じています。

わずか4年ほどの将軍職就任期間で、新井白石から帝王学を学びながら、間部詮房を父親代わりに子供らしい姿も史料に残しつつ、徳川家継の生涯は周囲に翻弄され、儚いものだったといえます。

約300年にわたる江戸幕府の体制が、幼少の家継を擁立していた数年の間に揺らぐことはなく安定していたのには、それまでの歴代将軍たちの功績が積み重ねられていたともいえます。

スポンサーリンク
tokugawa-history.comレクタングル大

tokugawa-history.comレクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする