徳川家康の性格を簡単に説明すると?

徳川家康の性格といえば、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という有名な句にも忍耐強い性格が表現されています。

徳川家康は、三河国の土豪だった松平広忠と於大の方との間に嫡男として生まれ、わずか3歳で叔父が織田家と同盟を結んだことで、実母との別離を余儀なくされます。

さらに、6歳という年齢から、織田家と今川家に人質として差し出され、十数年におよぶ人質生活が性格に影響を与えたことも想像できます。

その後も、三英傑と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉達との勢力争いを勝ち抜くために、さまざまな忍耐を重ねており、簡単な逸話とともにその生活を紹介します。

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徳川家康の性格がわかる簡単な逸話には?

徳川家康の性格がわかる簡単な逸話には、汚れが目立たず長く使えるという理由で、朝黄色の下着を使い、ボロボロになった着物を新しいものに変えようとする女中に、まだ着れると跳ね除けたといったケチとも思える話が残されています。

幼少期から人質生活を長く送った徳川家康は、贅沢なことを嫌い、自分のお墓についても、久能山への埋葬と一年後に日光にお堂をつくって移動させるという壮大な計画の指示を出しながらも、お堂は小さいものにするように指示しています。

お堂を小さなものにという「小さな」という言葉にも、徳川家康の質素倹約の性格が表されています。

徳川家康の食生活や長寿にみられる性格は?

戦国時代から江戸時代に生きた徳川家康は、当時としては長寿といえる75歳まで生き、死の直前まで自分で煎じた薬を飲み医者に頼らなかったといわれています。

現代の健康食に取り上げられるような麦飯を主食とし、煮物や焼き魚などを好んで食べ、一汁一菜を頑なに守る健康オタクのような人物だったことが、長寿にもつながったと考えられます。

これは、徳川家康が、健康志向であっただけではなく、倹約を心がける性格もうかがえ、薬草などの知識を駆使しながら、自分で調合した薬を根付に入れて持ち歩く倹約ぶりです。

徳川家康の慎重な性格と自身のこだわりの強さから、織田信長や豊臣秀吉が茶室や着物に豪華化を求めたのとは違う質素倹約の姿勢を堅持したことには、幼少期の思い通りにならなかった人質生活があるのかもしれません。

徳川家康に関する逸話から想像できる性格

戦国時代から江戸時代に生きた徳川家康は、生まれてすぐに三河国と隣接する今川義元や織田信秀などの戦国武将の影響を受け、元服後も織田信長や豊臣秀吉などに影響されながら、天下人となるタイミングを忍耐強く待っていた印象さえ受けます。

幼少時代からの人質生活の経験があるためか、物事の判断には慎重で忍耐強い性格が、さまざまな資料や史実からも簡単に推測できます。

残された逸話からは、忍耐強い性格を簡単に理解することができ、質素倹約を実践し、現代での健康食のような麦飯を主食とした一汁一菜を守り、75歳という長寿を全うしています。

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